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Honda原点コミックVol.3 「経営の危機とマン島出場宣言」

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英語版




2015/07/31 に公開
1954年本田技研工業は、折からの不況といくつかの計算違いが重なって、会社設立以来の最大の危機を迎えていた。しかし、大きな経営危機を死に物狂いで解決しながらも本田宗一郎と藤澤武夫は、マン島TTレースという新たな目標に狙いを定めていた。

Vol.4 いざアメリカへ ~巨大市場を開拓せよ~
2015年8月公開予定

ナンちゃんずコメント

1954年に世界最高峰のマン島TTレースを見たことは大きかった
と思う。
この1954年とは、シレラ(直列気筒)、MV Agusta(直気筒)、モトグッチ(直4→V8)、BMW(フラットツイン+シャフトドライブ)、AJS(並列2気筒)、ノートン(シングル)etcなどの
世界最高のオートバイが一同に介してしのぎを削った
最初の年だったと思う。
それから4年後の1957年で最終決戦を迎える。
オートバイグランプリレースの最高峰の舞台だった。

ホンダ社長はその渦中を目の当たりにした。
この経験は大きかった。
世界に参戦して勝利するという目標が明確に定まった。

また、この視察旅行でプラスネジと出会った。
それまではマイナスネジが一般的だった。
それを日本で普及させるアイディアを得た。

本田さんがたんなる経営だったら、
こういった発想など生まれなかっただろう。

たんなるネジだが、
それが製品を大きく変革するパーツ
だっということを一目みて感じ取った
感性の鋭さ。

天才的なエンジニアだったことを物語る
1つのエピソードだと思う。


えっと、そのプラスネジだが、
それを日本で製造すること、初期の性能を確保するには、
時間がかかったことはいうまでもない。
締め込むと折れる、何度も開け閉めすると、
ネジをなめる、また折れる。
材質と製法は試行錯誤の連続だったと思う。
外国はインチネジ、日本はミリネジにする問題
もあっただろう。


このビデオの中で紹介されたキャブレターも同じだった。
エンジン本体だけ突出していても、
周辺技術が追いつかないと性能、信頼性、製造製は
上がらない。

戦時中の戦闘機の場合、
ネジ1つとっても全てのメーカーで違うものを
使用していた。
サイズや材質はまったく規格化されていなかった。
機種が違うとまた違うパーツを使う。

おそらく三菱と中島飛行機で製造していた零戦
でもバラバラだったに違いない。

零戦は開戦時には世界最高峰の戦闘機だったが、
ネジなど規格化されたパーツを使用していれば、
もっと高性能になったかもしれない。

その後の疾風に搭載される2000ps級の誉エンジンも
性能は最高だが、それを発揮させる周辺技術がまったく
追いついていなかった。


いまでもG様ライダーはBMW党が多い。
それは壊れない、信頼性が高いなど、
日本製オートバイが劣っていた時代を
覚えているからだろう。
どうしてもBMWのほうが一段上だと思う。
BMWは壊れないと信じて違わない。

1950年代に製造されたBMWフラットツインは、
的確なメンテナンスを行えば、
いまでも元気に走るモデルが多い。


日本製オートバイがそれを性能の点で克服するのは、
1970年代を過ぎてからだったね。

CB750 Four、Z1、Z2はいまでも
人気があるが、それ以前のバイクはあまり見かけない。
CB72くらいか?

陸王、メグロ、キャプトン、ライラック、トーハツなどどこに行った?
すでにメーカーも無くなってしまった。
そして生き残ったのが日本の4大メーカーだった。






本田宗一郎がヨーロッパ視察に行った際、工場でプラスネジを ...

matome.naver.jp/odai/2137251585968962201/2137294414396174303
2013/07/04 - 本田宗一郎ヨーロッパ視察行った際工場プラスネジ使ったオートバイライン生産驚きまだマイナスネジ主流日本持ち帰って本格的にプラスネジを使い始めた. 出典アンティークのネジ 〜プラスネジとマイナスネジ〜.


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